第1回 道光帝・林則徐:アヘン戦争と中国の「開国」
オリエンテーション:
「アジアの歴史」の講義の内容
評価方法と履修上の注意
・近代までの中国:皇帝を頂点とした中央集権社会と自然経済:皇帝を頂点とした中央集権社会:無上の権力を握る皇帝と官僚集団の効率的支配
・「市場経済」vs.「自然経済」
・「男耕女織」「自給自足」
・アジア指導者たちの消極的な対外政策:江戸幕府の「鎖国令」
・明・清王朝の「禁海令」
・主な理由:キリスト教を代表とする西洋文化への警戒心
・イギリス商人と中国市場(中国市場へのあこがれ:睡帽とピアノの伝説、初めての挫折:自然経済の厚い壁)
・通常貿易と銀の流れ
・阿片という特殊商品(英ー印度ー中国の三角貿易)
・「弛禁論」と「厳禁論」、道光帝の禁煙への傾斜
・鴉片戦争の経過と結果(中国側の連敗。海防を固めた広州と無防備な天津
道光皇帝の動揺と妥協派の台頭。「南京条約」の締結)
第2回 徳川慶喜・明治天皇:明治維新とアジア近代化の発端
・中華帝国の危機と日本への衝撃
・中国で冷遇されたが日本で大好評だった『海国図志』
・ペリーの来航と日本の「開国」
・「明治維新」とは
・改革の方針
・改革の内容(その一)
・改革の内容(その二)
・明治政府の外交政策
・明治維新の光と影
第3回 洪秀全・康有為・西太后:西力東漸と清末の動揺
・近代中国の主な出来事(アヘン戦争以降)
洪秀全太平天国農民蜂起(1851-64年)
アロー戦争(「第2次アヘン戦争」、1856-60年)
洋務運動、同治中興(1862-74年)
清仏戦争(1884-85年)
日清戦争(1894-95年)
戊戌維新(「百日維新」,1898年)
義和団事件(1900ー01年)
辛亥革命(1911年),清王朝の終焉(1912年)
・アヘン戦争の失敗原因
軍事力の敗北
制度の敗北
国民の敗北
・「南京条約」と中国社会変動の開始
五港通商
戦争賠償金
香港の割譲
中国社会変動の開始
・中国歴史上の農民蜂起
農民たちの辛抱強さ
農民蜂起の多発
「替天行道」
「殺富済貧」
・洪秀全と太平天国
拝上帝会:
『資政新篇』:
・中国社会における西洋文化への受容
受容の流れ:
その反発:
・康有為の登場と戊戌維新
・保守派官僚の強さ
第4回 李鴻章・伊藤博文: 日中の近代化運動と日清戦争
・中国の近代化運動:洋務運動
第1段階:「強を求める」
第2段階:「富を求める」
・清朝:北洋艦隊の完成
「鎮遠艦」と「定遠艦」
・西太后の誕生日行事と海軍軍費の流用
頤和園
海軍予算の流用
・日本の明治維新と近代化の歩み
1855、洋学所(外国語の学校)
1862、オランダ留学(外国留学)
1868、五箇条の御誓文(近代化宣言)
1871、新貨幣制度
1872、東京・横浜間汽車開通(近代交通)
1877、東京大学開校(近代教育)
1889、大日本帝国憲法(憲法発布)
・日中近代化の共通点と相違点
「中体西用」と「和魂洋才」
「洋務運動」
明治維新
・日中の対決
朝鮮半島での陸戦
黄海海戦
・「下関条約」と台湾割譲
・日清戦争の結果
日本:
中国:
第5回 孫文・宮崎滔天・梅屋庄吉:辛亥革命と日本
・孫文:「国父」、「革命の先駆者」
孫文(1866―1925)号は逸仙、中山。広東省香山県貧しい農家の次男として生まれ。1897年(明治30)アメリカを経て来日し、宮崎寅蔵らと交わり、1905年東京で中国同盟会を結成し、三民主義や革命方略を定めた。11年10月にアメリカにいて辛亥革命の勃発を知り、西欧を巡り帰国。臨時大総統に推されて、12年1月1日中華民国を発足。24年1月、中国国民党を改組して、中国共産党と提携し、労働者、農民の結集を図って、国民革命を推進することとした。11月、北上宣言を発して北上の途に、日本に立ち寄って「大アジア主義」と題された講演を行い、25年3月12日「革命いまだならず」と遺嘱して北京に客死。
・「孫大砲」:アジアの連帯、アジア共同体建設の理想
「私の友人の中に、貴国の方が最も多いので、中国の革命事業に対して、日本人のほうはほかの国の人より関心を持っているのであり、われわれを喜ばせる処ももっと深いものである。将来の唇歯輔車の間柄は、これに基づくものであろうと信じている。」
・日本は第二のふるさと、革命運動の大本営
・孫文をめぐる日本人:宮崎滔天
「孫逸仙の如きは、実にすでに天真の境に近きものなり。彼、何ぞその識見の卓抜なる、彼、何ぞその抱負の遠大なる、しかして彼、何ぞその情念の切実なる。我が国人士中、彼の如きもの果たして幾人かある、誠にこれ東亜の珍宝なり、と。余は実にこの時を以って彼に許せり。」(『三十三年の夢』)
・孫文をめぐる日本人:梅屋庄吉
「君は革命の兵を挙げよ。我は財を挙げて支援す」
・ 孫文をめぐる日本人:三つのグループ
自由民権主義派:
国権主義派:
政界、財界人物グループ:
・孫文:日本に対する愛と恨み
「あなたがた日本民族は、欧米の覇道の文化を取り入れていると同時に、アジアの王道文化の本質ももっています。日本がこれからのち、世界の文化の前途に対して、いったい西洋の覇道の番犬となるのか、東洋の王道の干城となるのか、あなたがた日本国民がよく考え、慎重に選ぶことにかかっているのです」。
・真の日中友好を求めて
第6回 ラストエンペラー溥儀:中国封建王朝の終焉と傀儡国家「満洲国」
・溥儀:ラストエンペラーの数奇な人生
せんとうてい【宣統帝】
清朝第12代、最後の皇帝。姓は愛新覚羅。名は溥儀(ふぎ)。醇親王載?の子。辛亥革命により退位。1932年、日本軍部に擁せられ満洲国の執政、34年皇帝(康徳帝)。日中戦争後、戦犯。59年特赦。著「わが半生」。(在位1908〜1912)(1906〜1967)
・第一次世界大戦とその後の日中関係
1911年 「辛亥革命」が勃発。清朝政府の支配は壊滅。
1912年 中華民国臨時政府は南京で設立され、アジア初めての共和国は誕生。孫文は初代臨時大総統に就任(まもなく袁世凱に禅譲)。
1919年 山東半島の主権を回収しようとする中国側の主張はパリ講和会議に無視され、全国的帝国主義反対運動「五四運動」は勃発。
1921年 中国共産党が設立される。
1924年 第一次「国(民党)共(産党)合作」が開始。
1931年 日本関東軍は「満洲事変(九・一八事変、柳条湖事件)」を挑発、三ヶ月間、遼寧省・吉林省・黒竜江省を占拠。
1932年 日本軍のコントロールのもとで「満洲国」が設立され、その後、中国東北地域への移民政策が実施される。
1937年 「支那事変(七・七事変、廬溝橋事件)」が勃発、日本軍は大規模に中国各地へ侵入、日中は全面的戦争状態に入る。
・「大陸政策」→「満蒙独立構想」
1889年、山県有朋は内閣総理大臣に就任、超然主義をとり軍備拡張を進める。第一回帝国議会では施政方針演説において「主権線」(国境)のみならず「利益線」(朝鮮半島)の確保のために軍事予算の拡大が必要であると説いた。
第一回「満蒙独立運動」(1912年)
第二回「満蒙独立運動」(1916年)
「満蒙独立運動」の首謀者:
・「柳条湖事件」と「満洲国」建国
・「満洲国」は独立国家だったのか?
・犠牲となった人々(現地中国人住民と日本人移民)
・犠牲となった人々(「残留孤児」)
・溥儀の戦後
第7回 石原莞爾・東条英機・田中義一:日中戦争と太平洋戦争
・東条英機:軍・政を一手に掌握した戦争責任者
1884年7月30日(戸籍上は12月30日) ? 1948年12月23日)は、日本の陸軍軍人、政治家、第40代内閣総理大臣(1941年10月18日
- 1944年7月18日)。階級位階勲等功級は陸軍大将従二位勲一等功二級 。統制派の中心人物。首相在任中に複数の大臣を兼任し、また、太平洋戦争を始めた。東京裁判にてA級戦犯とされ、軍国主義の代表人物として処刑された。
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・いわゆる「田中上奏文」
・「廬溝橋事件」(支那事変・七七事変)
日中戦争の発端となった事件。1937年7月7日夜、廬溝橋付近で演習中の日本軍が銃撃を受け、これを不法として翌8日早暁中国語を攻撃し、両軍の交戦に至った。『広辞苑』より
・ずるずると全面戦争の泥沼へ
1937.7.7.廬溝橋事件
1937.8.13.上海事変
1937.8.14.国民政府「自衛抗戦声明書」
1937.8.15.中国共産党「抗日救国十大綱領」
1937.12.日本軍、南京占領
国民政府の首都:
・長期戦化された日中戦争
日本軍部
近衛政権
・毛沢東と『持久戦を論ずる』
戦争は長期戦:
戦争の展開は三段階:
・太平洋戦争へ突入した日本
「第二次世界大戦のうち、主として東南アジア・太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国トノ戦争。……1941年12月8日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって開戦。……」 『広辞苑』より
・日本の敗戦とアジア民衆が受けた戦禍
第8回 毛沢東・蒋介石:中国国民党・中国共産党の内戦と合作
・中国国民党について
創立者:
その後のリーダー:
・中国共産党について
創立者:
その後のリーダー:
・第一次国共合作
なぜ協力できるのか?
1)
2)
・蒋介石によるクーデターと国共の内戦
理由:
・中国共産党における路線の転換
1)
2)
3)
・毛沢東の軍事思想と孫子の兵法
国民政府の囲剿(包囲掃討作戦)
第一次囲剿:1930.12.-31.1.動員兵力10万
第二次囲剿:1931.3.-5.動員兵力20万
第三次囲剿:1931.7.-9.動員兵力30万
紅軍(共産党軍)兵力:4万
・毛沢東の軍事思想と孫子の兵法
毛沢東の遊撃戦戦術
「誘敵深入」
十六文字の秘訣「敵進我退、敵駐我攪、敵疲我打、敵退我追」
「傷其十指不如断其一指」
・2万5千里の長征(紅軍の大移動)
ヨーロッパ流戦術の敗北と革命根拠地の放棄
長い道程の大移動
遵義会議と毛沢東指導権の獲得
・抗日戦争から解放戦争へ
中国の抗日戦争
「柳条湖事件」(1931.9.18.)
「廬溝橋事件」(1937.7.7.)
1945.9.3.日本軍の降伏
解放戦争
・毛沢東を勝利に導いた理由
1)
2)
・蒋介石政権が敗北した理由
1)
2)
3)
4)
結論:「水可以載舟、亦可以覆舟」
・中華人民共和国の建国
1949年10月1日建国
第9回 金日成・スターリン:朝鮮戦争と東アジアの冷戦体制
・戦争までの朝鮮半島の歴史の流れ
1895年、下関条約、閔妃暗殺
1905年、日露戦争終結、韓国統監府設置
1907年、ハーグ密使事件
1909年、伊藤博文暗殺
1910年、日本の「朝鮮併合」。朝鮮の完全植民地化
1945年、分割占領、韓国統監府解体
1948年、大韓民国建国、朝鮮民主主義人民共和国建国
・スターリン・金日成・毛沢東の約束
毛沢東はじめてのソ連訪問(1949.12.ー1950.2.)
・朝鮮戦争とは
・朝鮮戦争の参加者と様々な名称
・参戦諸国とそれぞれの投入兵力
・朝鮮戦争の推移
映像「朝鮮戦争」
・朝鮮戦争の結果(1):朝鮮半島の分断
・朝鮮戦争の結果(2):冷戦の確立
・日本と朝鮮戦争
・朝鮮戦争と米中関係
1)
2)
3)
4)
・朝鮮半島と東アジアの平和の実現を
第10回 劉少奇・周恩来・林彪・「四人組」:冷戦下のアジアと中国の一連の政治運動
・アジアをめぐる社会主義諸国(地域)と資本主義諸国(地域)の二大陣営の対立
・孤立環境下の中国の経済建設
1950、
1953-1957、
1956、
・「大躍進」とその挫折
1958-61年、毛沢東の提倡で展開された大衆運動による経済建設運動。現実から遊離し、自然災害・ソ連の援助引上げなどもあり失敗。文化大革命に至る党内対立の出発点となった。(『広辞苑』より)
・中ソの対立 ーイデオロギーから国家関係へー
・エスカレートされた中国の政治運動
1957年、「反右派闘争」
1963ー66年、「社会主義教育運動」(「四清運動」)
1963ー66年、「毛沢東思想学習運動」
1966年、紅衛兵造反運動(文化大革命の開始)
1973-74年、「林彪批判・孔子批判運動」
1975年、『水滸伝』批判運動
1976年4月、第一次「天安門事件」
1976年10月、「四人組」の逮捕(文化大革命の終焉)
・巨大な試験・巨大な失敗:文化大革命(一)
毛沢東への個人崇拝
・巨大な試験・巨大な失敗:文化大革命(二)
熾烈な権力闘争
劉少奇・ケ小平および全国各地にいる「走資派」たちの失脚
ナンバー2人物だった林彪のソ連亡命と墜落死
江青を初めとする「四人組」の周恩来打倒キャンペーン
毛沢東の死去と文化大革命の終焉
・文化大革命とアジア諸国
・文化大革命をめぐる歴史的評価
1981年6月、中国共産党11期6中全会は、「建国以来若干の歴史問題に関する決議」を採択した。
現在の中国では
・「文化大革命」は避けられなかったか?
第11回 毛沢東・ニクソン・田中角栄:人民中国の苦悩と国際社会への復帰
・戦後初期の日中関係
1950.2.中ソ友好同盟相互援助協約調印、日本の軍事的復活に対する中ソの相互防衛関係確立
1950.6.朝鮮戦争勃発
1951.9.サンフランシスコ講和条約および日米安全保障条約、日本の対外的選択
1951.12.ダレス国務長官要請下の「吉田書簡」
1952.4.日本と台湾:「日華平和条約」を調印、日本は台湾を選択
・「政経分離」VS「政経不可分」
「政経分離」か、「政経不可分」か
「 、 」「 」への中国側方針の転換
物々交換に基づいた第一次、第二次、第三次、第四次日中民間貿易協定の締結
L・T貿易(廖承志と高碕達之助)
「水を飲むときには、井戸を掘る人を忘れない」、日中民間外交の先駆者たち
・積極的な民間と消極的な政府
1949.5.-6.中日貿易促進会・中日貿易促進議員連盟・中日貿易会という「中日三団体」が発足
1949.10.日中友好協会が設立
1955.7.松山バレー団訪中(中国バレー劇「白毛女」を公演)
1956.5.京劇名優梅蘭芳訪日
鳩山(一郎)内閣の「二つの中国」政策
岸(信介)内閣と長崎国旗事件
佐藤(栄作)内閣と国連でのアメリカ追随
・米ソ両大国の対立と アメリカ対中国政策の変化
1)
2)
3)
4)
5)
・アメリカ、中国へシグナルを送る
1970年初頭、米中大使級会談がワルシャワで再開
1970年10月、「中共」の代わり、「中華人民共和国」という呼称は使用される
1971年4月、アメリカ側のサーブで「ピンポン外交」が開始
・毛沢東の反応と中国「大外交」の始動
1970年10月1日、
1971年4月、
・ニクソン・ショック
1971年7月、大統領補佐官キッシンジャーは
翌年のニクソン訪中を発表
佐藤内閣は 、経済界・政界が
同年9月、第二六回国連総会では中国招請・台湾追放のアルバニア案が可決され、中国は国連と安保理へ復権
佐藤内閣は
・田中角栄の登場と田中内閣の決断
1972年7月、田中角栄が自民党総裁となり、第一次田中内閣を組閣
「日中問題は外交問題であるよりも国内問題だ」「日中関係を解決せずして、日本の安定なんかあるわけがない」
新内閣の三大政策目標:@
A
B
・田中訪中と日中国交の回復
1972年9月25日ー30日、田中角栄首相・大平正芳外相・二階堂進官房長官ら中国訪問
四回にわたる日中会談
日中共同声明と「 な状態」の終結
・中国の国際社会への復帰と日中関係の新時代
1974年、「日中貿易協定」などが締結
1978年、ケ小平副首相訪日、「日中友好平和条約」調印
1979年、大平(正芳)首相訪中
1980年、華国鋒首相訪日
1982年、鈴木(善幸)首相訪中
1983年、胡耀邦総書記訪日
1984年、中曽根首相訪中
1985年、彭真全人代委員長訪日
1988年、竹下首相訪中
1989年、李鵬首相訪日
1989年、日本政府は中国へ50億円無償援助を提供
1991年、海部(俊樹)首相訪中
1992年、江沢民総書記訪日、天皇・皇后訪中
第12回 「四小龍」「三小虎」とケ小平:政治至上の時代から経済至上の時代へ
ーアジアの変貌と中国の「改革開放」ー
・「東アジアの奇跡」
世界銀行は1993年に『東アジアの奇跡--経済成長と公共政策』と題したポリシー・リサーチ・レポートを発表した。この本は1965年から1990年にかけて東アジアが世界のどの地域よりも急速に成長したこと、この急成長は、香港、インドネシア、日本、韓国、マレーシア、シンガポール、タイ、台湾といった8つの国・地域における、奇跡的な経済成長によりもたらされたことを分析し、これら8つの高度成長を示す経済地域をHPAEs(High
Performing Asian Economies)と名付けた。NICs といい、NIEsといい、世界銀行あたりのエコノミストがつくり出した新語だが、こんどはHPAEsという新語が登場したわけである。これら8つの地域は、日本プラス四小龍(韓国・台湾・香港・シンガポール)プラス三小虎(タイ・マレーシア,インドネシア)
にグループ分けできる。 60年代後半から、 70年代、 80年代にかけて、 日本の高度成長が四小龍に波及し、 さらにはアセアンの三匹の虎に波及したものとみてよい。高度成長が四小龍あたりにとどまっていた時期には、いわゆる
「儒教文化圏」 論がにぎやかに行われた。つまりは、 高度成長が可能なのは、 日本プラス四小龍だという議論である。ーー矢吹晋「東アジアの奇跡と中国」より
・韓国の経済発展
韓国経済は朝鮮戦争による内戦でインフラが壊滅したことで大きく立ち後れていたが、所謂漢江の奇跡と呼ばれる経済発展以降成長を続け、2006年のGDPで世界12位であった。主要な産業はIT、造船、鉄鋼、自動車など。またファンドなどの金融が急成長を見せており、韓国国内外合わせたファンド投資の総評価差額は07年には総額44兆2393億ウォン(約5兆3122億円)に達し、06年の10兆2222億ウォン(約1兆2274億円)の4.3倍に膨れ上がった。海外ファンドのみの評価差益は207億ドルであり、07年の貿易収支黒字の推定値である150億ドルの1.4倍に達している。[1]
新興工業経済地域(NIEs)の一つに数えられた時期を経て、1996年にアジアで2番目のOECD(経済協力開発機構)加盟国になった。(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・台湾の経済発展
台湾の経済は国家資本と外国投資により形成された資本主義経済システムを採用している。しかし政府の経済に対する役割は縮小傾向にあり、多くの国有銀行や国有企業が漸次民営化され、過去30年間の経済成長率は8%に達し、輸出工業による外貨獲得により台湾は世界第3位の外貨準備高を達成した。
国内総生産 (GDP)に占める農業の比重は減少傾向にあり、1952年には35%であったものが現在では僅か2%となっている。また伝統的な労働集約型の工業はハイテク産業に転換されている。台湾の電子工業は世界経済に大きな比重を占め、多くのコンピューター部品が台湾で生産されその影響力は極めて大きい。貿易相手国としてはアメリカと日本が長期にわたり大きな比重を占めてきたが、近年は中国との貿易額が飛躍的に増大し、そのほかEUや東南アジアへ転換を図りタイ、インドネシア、フィリピン、マレーシア、ベトナムへの国外投資も盛んに行われている。また特記すべき内容として中国への積極的な投資の結果、現在5万社を超える台湾企業が中国に進出しており、100万人以上が長期にわたり中国に駐在し大きな経済勢力となっている。(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・香港の経済発展
第二次世界大戦が終わると中国本土では国共内戦が勃発し、1949年には中国共産党が勝利し、北京において中華人民共和国の成立を宣言し、経済の計画化を進めた。戦乱や共産化を避けるため、香港には中国大陸本土からの移民が押し寄せた。その中には、安い労働力となる難民のほか、上海など戦前の中国を支えた大都市の資本家も含まれていた。また、ちょうど上海の繊維産業は設備更新期にあたり、欧米などから新しい製造設備を輸入するところであった。こうした事情が重なり、戦後は繊維産業や(後に発達する)プラスティック加工などの軽工業が発展した。香港経済は中継貿易から加工貿易へとシフトしたのである。
1970年代からは、香港政庁が新界の住宅団地開発や地下鉄建設などインフラ建設を開始し(詳細は積極的不介入を参照)し、香港経済は急速な発展を遂げる。そして、1970年代後半になると労働コストの上昇や工業用地不足などの問題にも直面し始めた。(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・シンガポールの「開発独裁」
1970年代のシンガポール独立後に首相に就任したリー・クアンユーは、天然資源に恵まれないものの、東南アジアにおける通商の中心地に位置するシンガポールを発展させる唯一の手段として、一党独裁体制下での通商都市国家の道を選択する。
いわゆる開発独裁体制の下で、職住近接型のジュロン工業団地の整備や、HDBと呼ばれる公営住宅の普及を急速に進め、外資系企業の積極的な誘致、ハブ空港整備(チャンギ空港)、関税廃止、教育水準の向上、マナー管理(チューインガム禁止、落書きにはムチ打ち刑、公道上での泥酔禁止、麻薬所持や拳銃の発射は死刑)などの開発政策を進め、その結果、アジアでも有数の経済発展を成し遂げ、1998年に一人当たりGDPは3.3万ドルに達した。東南アジア諸国連合(ASEAN)には結成時に加盟、新興工業経済地域(NIES)の一角でもある。(出典:
フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
・文化大革命終了後の中国の歩み
1978年12月 中国共産党第十一期三中全会、ケ小平主導の改革開放政策路線を採択
1979年1月 米中国交回復
1980年5月 経済特別区の設置決定(深セン・珠海・汕頭・廈門・海南省を指定)
1982年 共産党十二全大会,工農業総生産額四倍増提起。胡耀邦総書記就任。
1984年5月 「沿海開放都市」の設置決定(大連・青島・上海など14都市を指定)。
1985年 人民公社の政社分離,郷政府樹立が終了。
1986年8月 瀋陽市に初の証券取引所開設
1987年11月 中国共産党13全大会開催,趙紫陽を総書記として選出
1989年5-6月 北京で100万人の街頭デモ,「天安門事件」
1989年11月 ケ小平軍事委員会主席引退,江沢民が後任
1990年9月 北京で第11回アジア競技大会開幕
1990年12月 13期7中会,第8次五カ年構想策定提案を採択,改革開放政策を再確認。
・「不倒翁」と呼ばれた異色の政治家
ケ小平(とう しょうへい、Deng xiao ping)1904-97、中国の政治家。四川省広安県の人。1920年フランスへ留学,24年在仏中に中国共産党に入党,26年モスクワに学び,27年帰国。34年に長征に参加,45年党中央委員,52年以降,政務院副総理,党総書記など要職を歴任。文化大革命で劉少奇に次ぐ党内実権派と批判され失脚。林彪事件後の73年に毛沢東に再起用され復活したが,76年4月の天安門事件の黒幕と目され全職務を解任された。
毛沢東の死後,四人組が逮捕され,77年に復活し,78年12月の党第11期3中全会で現代化路線への歴史的転換をはかり,改革開放政策を推進。その思想は生産力論を基礎とした「白猫黒猫論(実利主義)」と「実事求是(経験主義・漸進主義)」を特徴とする。(出典:
角川書店『世界史辞典』電子版)
・「改革・開放」路線の真髄
改革開放(かいかくかいほう、?音: g?ige k?ifang)とは、中華人民共和国のケ小平の指導体制の下で、1978年12月に開催された中国共産党第十一期中央委員会第三回全体会議で提出、その後開始された中国国内体制の改革および対外開放政策のこと。
毛沢東時代の大躍進、文化大革命で疲弊した経済を立て直すため、現実派のケ小平は「四つの近代化」を掲げ、市場経済体制への移行を試みる。基本原則は先富論に代表されるように、先に豊かになれる条件を整えたところから豊かになり、その影響で他が豊かになればよいという考え方である。
・「経済特区」と中国の経済的発展
経済特区とは
中国で、外国の資本・技術の導入などのために設定した特別区域。経済特別区ともいう。1979年に広東省の深?(シンセン)・珠海・汕頭(スワトー)および福建省の廈門(アモイ)に,88年に海南島(海南省)に設ける。ほかにもこれに準じた区域を沿海都市などに設定。(出典:
『広辞苑』)
・ケ小平の日本訪問と「四つの現代化」路線の具現化
1978年10月26日、ケ小平一行は新幹線で古都・京都を訪れた。この時、ケ氏は随行記者団に「新幹線に乗ってみると、前進をせかされている感じがする。我々は今こそ、前進しなければならない」と述べたという。
「改革・開放」政策の成果
これまでの30年間,すでに4億の中国人が貧困から脱出できた。これは過去100年間世界中脱貧困総人口の75%を占める。
「改革・開放」以来,中国はわずか20年の時間内,ヨーロッパが200年をかけて歩んできた工業化・都市化および社会改革の道を歩んできた。
2007年,中国の世界経済に対する貢献は初めてアメリカを抜いて世界一位となった。同年,中国は世界最大の食糧・エネルギー・工業製品の消費国となった。
・その後の日中関係:こんなにも密接的になってきた
◆中国における在留邦人数:9万9,179人(04年、香港を含む) →日本の海外在留邦人数(約96万人)の10.3%
◆中国への進出企業数:3万1,855社(04年末累計企業数、中国側統計)→在中国の外資企業数(50万8,941社)の6.3%
◆日系企業による中国国内での直接・間接雇用創出数:920万人 (2005年4月23日付人民日報(薄煕来商務部長発言))
◆日系企業による中国への納税総額:約59.2億ドル(同上) →中国における納税額(約2,919.7億ドル)の約2%
◆日中貿易総額:1,893.9億ドル(05年、香港を除く)(JETRO統計)→香港を含めた額(2,271億ドル)では、日米貿易総額(1,993.7億ドル)を超過
◆対中直接投資総額:65.3億ドル(05年実績、中国側統計) →累積投資額は468.4億ドルで、国としては米国(480.2億ドル)に次いで第2位
◆人的往来:約417万人(05年)(日→中:約339万人、中→日:約78万人)→米中間の人的往来(約175万人)の約2.3倍(04年の数値を比較)
◆日中間の留学生:約13万人(04年) (日→中:約2万人、中→日:約11万人(就学生を含む))
◆日中間の友好姉妹都市:314組(34都道府県、241市、39町村) (出典:「外務省」HP)
・その後の日中関係:政治関係
1972年9.29 日中国交正常化実現(日中共同声明発表)
1973年1.11 在中国日本国大使館開設 2.1 在日中国大使館開設
1974年1.3 大平外相訪日 1.5 日中貿易協定調印(於北京)
9.29 日中間定期航空便正式就航 11.13 日中海運協定調印(於東京)
1975年8.15 日中漁業協定調印
1978年8.12 日中平和友好条約署名調印(於北京) 10.22 トウ小平副総理来日 10.23 日中平和友好条約批准書交換(於東京)
1979年12.5 大平総理訪中 12.9 日中文化交流協定調印(於北京)
1980年 5.27 華国鋒総理来日 12.3 日中閣僚会議(〜於北京)
1982年 5.31 趙紫陽総理来日 9.26 鈴木総理訪中
1983年 11.23 胡耀邦総書記来日
1984年 3.23 中曽根総理訪中 4.27 佐々木民社党委員長訪中 8.30 李鵬副総理来日 9.10 日中友好21世紀委第第1回会合
1985年 10.23 中曽根総理、趙紫陽総理会談(於ニュー・ヨーク)
1986年 11.8 中曽根総理訪中
1988年 8.25 竹下総理訪中
1989年 2.23 銭其シン外交部長、国家主席特使として大喪の礼参列のため来日 4.12 李鵬総理夫妻来日
1991年 8.10 海部総理、中国・モンゴル歴訪
1992年 4.6 江沢民総書記訪日 10.23 天皇皇后両陛下御訪中
1993年 11.19 日中首脳会談(細川総理・江沢民主席)
1994年 1.8 羽田外相訪中 2.23 朱鎔基副総理訪日 3.19 細川総理訪中
1995年 4 喬石全人代委員長訪日 5.2 村山総理訪中 12 河野外相訪中
1997年 9.4 橋本総理訪中
・「アジアの相互理解と相互信頼」の時代への心構え
「アジア理解」のおすすめ
アジア留学のおすすめ
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異文化理解へのおすすめ
留学生と仲良くしましょう
「アジア共通の歴史教科書」は可能か?
第12回授業資料(簡易版)
・期末テストについて
実施日時:2010年7月20日(火)2時限目(教室は434教室)
制限時間:1時間(一人分ずつ空けて座る)
設問パターン:問一、事件名・人物名・歴史事象などの簡単なまとめ、5問、各100字以内、各10点。
問二、小論文、指定された2問から1つを選んで300-500字の小論文をまとめる。
持ち込み可のもの:配布プリント、自筆ノート(コピー不可)、サポートHPの資料、筆記用具
★7月20日期末テストの欠席者へ★
7月27日午後16:20ー16:50の間に教員の研究室(研究館R-305号室)を訪問し,欠席の理由を説明してもらって,追試験などの措置を取る予定。それ以降は対応できません。
メモ欄: